Interview with Zamboa

Klan Aileen改めZamboaの新作『未来』の発表を受け、メンバーの澁谷亮と竹山隆大の二人にインタビューを行った。レコーディングの実際や、作品のテーマ、新たなバンド名の由来に至るまで、縦横無尽に語ってもらった。

インタビュー/構成:柴崎祐二

Chapter 01
ずっと欲しかった「個性」のようなものがあるような気がした。

――新作を聴いてまず感じたのが、かつてのKlan Aileenの作品に比べて、メロディーや歌声の存在感、曲自体の構成など、全体的に具象性が増したな、ということでした。

澁谷
竹山にミックスを送った時にも最初に歌のことを言われました。結構熱い感想と一緒に返ってきて。今回、多い曲だと200パターンくらいミックスがあって、それを経ての「これどうでしょう」だったので、そういう反応を貰ってようやくトンネルを抜けた感じがした。

竹山
これまでよりも歌が前に出てきていて、歌詞がちゃんと「これは詩なんだ」と分かったことにすごく感動したという風に伝えましたね。以前の作品は、主眼となっているのがメロディーや歌というより、ノイズとかドローンのようなテクスチャー的な部分だったと思うんですけど、今回は歌が圧倒的に必然として存在しているんだなと。

――なぜそのように変化したんでしょうか?

澁谷
3年前にTaiko Super Kicksの『波』と『石』というアルバムにエンジニアとして参加させてもらったことがあって、ボーカルの暁里くんの詩はもう2015年の『霊感』『メニイシェイプス』の頃からすごいなと思っていたんですけど、彼の詩を読んでいると「本をたくさん読んでいるから」みたいな迂回路ではなくて、シンプルに「詩というものに向き合っている」からこそこういうのが書けるんだろうなと。俺もそういう態度で書こうと思った。
あとは、普段の生活の中でラジオをよく聴くようになって、メジャーなポップスが耳に入ってくる機会が増えたんですよ。あるときに、藤井風の「旅路」という曲が流れてきて、「いい曲だ」と思って。それから藤井風ばかり聴く時期があって…。

――なんと、藤井風もきっかけだったんですか。

澁谷
歌を前に出すきっかけとしては結構大きかったと思います。極端な話ですけど、ドローンみたいな前衛音楽とかと宇多田ヒカルの音楽が好きみたいな感覚が普通に自分の中に共存しているので、自然の流れではあったと思うんですが藤井風は「この人やばい」と思った。

竹山
僕も元々王道のポップソングが好きだったし、元をたどれば澁谷と出会ったときから彼の書くメロディーラインが好きでバンドを始めたというのもあって。本当はこれまでのアルバムもずっと澁谷のメロディーは素晴らしいんですよ。常にフックとして曲の中に存在していて。多分どの曲もアコギと歌だけで聴けると思う。でもバンドのスタンスとして隠されているというか抽象的な感じだった。だから、今回はそのあたりの個性が再び出てきた印象を持ちました。

――近年の音楽シーンを見回すと、輪郭のはっきりしたロック的なアンサンブルへ回帰していくようなムードがあるような気もするんですが、そういう中で自らの足元を見直していったところもあるんでしょうか?

澁谷
「輪郭のはっきりした」で思い浮かぶのはやっぱり、サウスロンドン……と一概にも言えないあの、Rough Trade、Speedy Wunderground、Partisan、Heavenlyあたりの人たちなんですが、その中でレコーディングを多く手がけているダン・キャリーのプロダクションを最初は良いなと思っていたんです。あの人も多分ドラムの録り音に強烈なフェティシズムがある気がしていて、ただ、そこも含めて徐々に「ダン・キャリーだな」以上のものを感じなくなってきて。あの密室的な感じが「何かをスポイルしていないか?」と感じたり、バンドも、ポストパンクを盾にメロディーをないがしろにしてないか?と引っかかるようになった。結局、良いメロディーを作ることと、そこに言葉を乗せることが一番難しいと思うから、このアルバム制作中の気分的にはそういった海外のムードは割と反面教師にしていました。

――なるほど。

澁谷
ただ同時に、自分達の音楽の個性ってなんなんだろうとずっと悩んでいて。いろんなことを器用にやっているだけなんじゃないのかみたいな。そういう中で藤井風と、あと、betcover!!の『時間』と『卵』にもめちゃくちゃ衝撃を受けて。二人とも言葉のつながり方が異様に速いというか、なんか予備動作が無いんですよね。2022年は、ほぼ藤井風の『HELP EVER HURT NEVER』『LOVE ALL SERVE ALL』とbetcover!!の『卵』を延々聴いていた記憶しかなくて、それらを聴いていく中で、ヴォーカルの個性とか歌声のキャラクターとか…そうかこのくらい曝け出さないといけないのかと。

――そこでパッと視界が開ける感覚があったということですね。

澁谷
そうですね。声を前に出したミックスにしてみるか、みたいな。

――そうすることで、必然的にメロディーも際立ってきた、と。

澁谷
だと思います。そのミックスを聴いた時に、やっぱりいろいろ稚拙だし、恥ずかしいんだけど、ずっと欲しかった「個性」のようなものがあるような気がした。

――2ピースバンドという形態のジレンマみたいなものもあったんでしょうか?単純に、演奏する人数が少なければハーモニーを重層的に組み立てたりするのも難しいとは思うのですが。

澁谷
それもありました。俺自身、そういう制約的なフォーマットの中で音楽を作ることに意味があると信じて悪戦苦闘していたところもあって。竹山は「普通に音足せばいいじゃん」って思ってたと思うんですけど(笑)。諦めきれずに地獄の5年を過ごすことになった。

――竹山さんは、今回のリリースにあたって公開されたご自身の文章の中で、様々な過去の「点」を現在の「点」へ繋ぎ合わせる作業について言及されていましたが、具体的にはどんな「点」があったんでしょうか?

竹山
いろいろあったんですが、明確にここが起点になったなという体験があって。ある日、リハスタで澁谷がDAWをいじりながら自分達の曲の一部分を延々ループさせて、「これずっと聴けるな」みたいなことを言ってて。その時に、それってファンクとか、ヒップホップ的な作用だよなと思ったんです。だから澁谷のメロディーやギターのリフレインのムードを壊さないようなビートを考えてみようと思って。90年代のBoom Bapのレコードを聴きまくってムードを連続させるグルーヴみたいなものを作りたかった。要は誰もが感じれる普遍的なグルーヴに接近したかったんです。それが一つの重要な「点」でした。ア・トライブ・コールド・クエストの『ロウ・エンド・セオリー』が昔からずっと好きで、『未来』もほとんどあのアルバムのビートの引用で出来てるとも言える。全然出来ませんでしたけど(笑)

――なるほど。そう言われると、これまでの作品に比べて、リズムの輪郭もはっきりと前に出てきている印象を受けます。

竹山
いわゆる「ロックのドラム」とも違うプレイになっていると思います。もう一つは、日本人としての自分の文化的なルーツとはなんなのかということをすごく考えている時期があって、宮本常一さんの『忘れられた日本人』や、澁谷から教えてもらった小泉文夫さんの『日本の音』を読んだりして。自分も含めていろいろなものがハレーションを起こしている現在に、今自分はどこから来て、どこにいて、どこに進むのかみたいなことを確認したくて昔の日本人の言説や風俗などを思い起こしていました。自分の中に根付いている固有のリズム感覚みたいなものもあるだろうし、そういうものを重ね合わせられないかな……と考えるために。

澁谷
ツバメスタジオの君島さんも「タケヤンのドラムはロックドラマーのそれじゃないよね」と言っていて、「そうなのか」と思いました。確かに周りのドラマーはもっと一打一打がバシッと強いんだけど、君島さんの言葉を借りるとタケヤンのは「ホッホッホ」って途切れないように渡っているような感じ。

Chapter 02
自分以外のメンバーの頭の中の音は無視されて曲に奉仕する駒みたいになってしまう。

――2019年以来、ほぼすべてのリハでレコーダーを回して、それを編集の上本テイクとして使用しているということですが、なぜそういう制作方法をとろうと思ったんでしょうか?

澁谷
アルバムを作るつもりでちょくちょく機材を持ち込んではいたんですが、コロナになってスタジオに入る回数も減ってしまって、ライブもやることがなくなり。それがきっかけで、少数のファンに向けて二人でラジオをやり始めたんですよ。最初は二人で会って喋ってたんですけどコロナの波とかそれぞれの家庭の事情とかでそれも難しくなった時に、一人が喋って、その次の回でもう一人が喋って、という形に自然になって、そうする中で、普段二人で一緒にスタジオにいるときには話さないようなことをお互いにラジオを通じて伝え合うみたいなことが発生して。

――交換日記みたいな(笑)

澁谷
そうです(笑)
で、ある回で自分が「竹山がリハでウォーミングアップ的にドラムを叩いているところに、ギターで乗っかってジャムに入っていくあの感じが好きだ」っていう話をしたんです。そうやって言葉にしてみたら自分でもハッとして、「そうか、あの感じをアルバムでもやれば良いんだ」と思って。それやるならもう全部録るしかないなと。This Heatの「あらゆるリハーサルを録音してた」っていうエピソードを読んだことがあって、いつかやりたいなとは思ってたんですよね。

竹山
CANの<インナー・スペース・スタジオ>でのやり方もそんな感じだよね。何時間もジャムし続けたテープをホルガー・シューカイがめちゃくちゃ編集するっていう。ジャムの時ってどうしても手癖的なパターンになりがちだから、さっき澁谷が話したようなジャムの時も、リアルタイムで叩いている自分としては手応えって別になくて。「手癖だなー」みたいな。ただそういう無意識下の自分の演奏を聴けることってほとんどないじゃないですか。だから、アイデアとしてめちゃくちゃ面白いと思った反面、果たしてそんなことでアルバムが出来るんだろうか?と訝しげに思ってました(笑)

澁谷
(笑)。タケヤンの頭の中に「新しく仕入れたビート」みたいなのがある時は、それが手癖と混ざって新しいパターンとして出てくるんですよ。それが面白くて。そういうのってほんとに一回きりしか現れないんですよ。「さっきのもう一回やって」とか「この前のやつもう一回叩いて」とか言っても2度とその良さは現れない。それを捉えたかったから「毎回録るしかない」と思った。あと、竹山のドラムって何よりも俺の歌を聴いて叩いているということに気づいて。自分としては、このリフの後ろではこんなメロディとビートが乗るかなみたいな気持ちで持っていくんだけど、竹山が初めてそのリフに合わせるときは、あくまでそのリフだけを手掛かりに叩いているんですよね。こう言うと「当たり前じゃないか」って話なんですけど、「そうか俺の頭の中の音って聴こえないのか」っていう(笑)。

竹山
ソングライティングをする立場の人間は曲の全体を見ていると思うんですが、僕としてはとりあえず目の前のリフを頼りに演奏するしかないです(笑)。リフの響きでこんな感じの曲なのかなとか思っていろいろパターンを試してみる。

澁谷
そこで、自分が「実際には鳴っていない音」を聴いていたのかっていうことに気づいたのと、リフだけじゃなくて歌が一緒にある曲の方が断然良いドラムを叩いているっていうことも同時に気付いて、結構目から鱗が落ちた。「リフじゃなくて歌の抑揚を聴いてたんだ」と。

――「他者と一緒に演奏する」というバンドのあり方の基礎を再認識した、っていう感覚なんでしょうか?

澁谷
そうですね。そういう感覚って、意外とバンドをやっている当人たちの方が忘れがちじゃないですか?自分以外のメンバーが曲のどこを聴いてその演奏になっているのかって。強いリーダーやバンマスがいる場合は特に。メンバーの頭の中の音は無視されて曲に奉仕する駒みたいになってしまう。

――LPのライナーノーツに記載されているマイク等のセッティング図を見ると、かなりシンプルな録り方をしていますよね。実際にドラムの音を聴くと、いわゆる「ガレージ」な鳴りになっているのがわかるし、とても効果的だと思いました。

澁谷
僕はドラムにたくさんマイクを立てても持て余すんですよね。5本立てれば自分にとって必要十分な音が録れる。それによって毎回機材を持ち込むっていうハードルが少し下がったと思うし、リハーサル環境のままで録音マイクを立てるっていうことができて、ヴォーカルマイクがドラムの音を拾ってスピーカーからエコーのかかったドラムが出て、それを更にドラムにセッティングしてある録音マイクが拾って……という、本来避けるような音が録れる。曲によってはかなり変な音像になっていると思います。デヴィッド・ボウイのボーカル録りでもなんか似たようなエピソードがあったはず。

――そうやって数年間に渡って録りためた膨大なトラックを、今度はミックスに向けて選定していく作業があるわけですよね。考えるだけで気が遠くなりそうですが、どういう基準を設けて選んでいったんですか?

澁谷
全部を並べて「一個決めよう!」っていう感じでもなくて。その時その時で良いと思っているテイクがあるんだけど、繰り返し聴く中で二ヶ月くらいすると飽きてきて、それは「弱いテイク」ということになる。「良いと思ったけどもう何も響かないな」みたいな。最後は自分にとっても謎めいた部分があるテイクが残っていく。なんでこういうプレイなんだろう?っていう。

竹山
そういう意味では、普通のバンドのレコーディングと反対のことをしていたともいえるかもしれないですね。まず設計図を作って、その理想図に近いプレイを本番のレコーディングで重ねていくというのと真逆というか。

――エディットはどれくらい加えているんでしょうか。曲ごとにまるっとフル尺を使う感じですか?それとも切り貼りも沢山している?

澁谷
曲の構成が変わる部分からまるっと別テイクとか、ここから1分間はこのテイクとか、そういう大きい入れ替えはしています。クリックもほぼ使ってないので、細かい切り貼りという選択肢がそもそも無いんです。

Chapter 03
あらかじめ何かを規定されるのではなくて偶然性の要素が介在していること

――2曲目の「メトロポリス (Metropolis)」に顕著ですが、曲の途中でテンポが変わっていくあたりにも、「生演奏をそのまま録った」音ならではの魅力を感じます。

澁谷
そこは完全に俺の執着で、やっぱり一曲の中でテンポが変わっていかないと面白くないと感じちゃう。人のライブを観てても、ドラマーがイヤモニをつけて同期の音が流れ出した瞬間に冷めてしまう。あれって「この曲はテンポ変わりません」っていう宣言じゃないですか。なんというか、安心して心地良くなれるみたいな音楽じゃなくて「約束されていない音楽」が聴きたいんですよ。2ピースバンドあるあるで、大体ルーパーを使ってそれを土台にしちゃうんですよね。あれも白けちゃう。

――結局のところ、「ああ、よく出来てますねえ」という感想になってしまうということですかね?

澁谷
そうですね。別に曲芸を観たいわけじゃないんです。それでいうと、ここ数年で曲芸めいた音楽がドッと増えた印象があって。生身でやるにしても、DTMにしても。

――わかります。様式化の進んだジャンルにそういうものが多いかといえば必ずしもそうではなくて、むしろ、インディー/メジャー問わずポップス系の曲の中にも目立ってきている気がします。

澁谷
その先に何かあるんですか?と思ってしまう。

――曲のテンポが変わってくことについて、竹山さんはどう感じていますか?

竹山
ジャズが好きで、テンポの変化やハプニングがその作品を好きになる要因の一つとして間違いなくありますね。セロニアス・モンクの『Monk’s Music』でジョン・コルトレーンがレコーディング中に眠っちゃってて、コルトレーンのソロ前にモンクが「コルトレーン!コルトレーン!」と叫んでいるレコードがあって大好きです。人間のダイナミクス全開という感じで。でも僕は正直そこまでフェティッシュな思いはなくて、なるべくならばレコーディングではクリック使いたいと思っています(笑)。

澁谷
(笑)

竹山
でもやっぱり、あくまでバンドという形態だから、あらかじめ何かを規定されるのではなくて偶然性の要素が介在していることの重要性はよくわかります。

――ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「ヘロイン」とか、ドアーズの「ジ・エンド」とかを聴いていても思いますけど、シームレスなテンポの変化って、鼓動の高まりとか、ある種の没入感を演出する手法でもありますよね。

竹山
それは絶対ありますね。あとはハプニングとか禁忌的なものって怖いもの見たさで聴きたくなるというか。「え?いいんですか?本当に?」みたいな。

澁谷
グロテスクだよね。

――即興演奏や伝統音楽はもちろん、西洋音楽の世界でもアッチェレランドみたいな速度記号もよく使われていたわけで……何が言いたいかというと、非グリッド的な、ゆらぎのあるテンポっていうのは、音楽的な要素として現代の人間が思っている以上に重要なものなんじゃないかな、と。

澁谷
わかります。やっぱり、DAWで「後から編集しにくいから」というだけの理由で音楽制作の想像力が規定されてしまっているようなところがありますよね。僕も制作中のある時期から「見て作る音楽」と「見ないで作る音楽」というワードで対比して考えていた痕跡がメモ帳にあって。DAWが徹頭徹尾「見て作る音楽」だとしたら、テープとかの時代はほんとにVUメータくらいしか見えませんからね….

――リージョン画面にしても、ピアノロールにしても、それが一種のフォーマットとして機能して音楽のフォルムを規定してしまうというのはありますよね。それって、いわゆる「アーキテクチャ型権力」そのものだよな、と。デフォルトが4拍子に設定されていることで切り捨てられてしまう想像力もきっとあるだろうなと思ったり。

澁谷
本当にそうですよね。

――極端な例ですけど、『千鳥の鬼レンチャン』みたいに、音程バーがヴィジュアライズされた状態で音が具象化されているのとか……なんというか、音楽観の矮小化に繋がってしまう部分もあるんじゃないかと思ったりもして。

澁谷
あ~、なるほど(笑)。小さい頃にあれを見たら、あの音程バーに合っていることにしか価値がないと思うようになるかもしれませんよね。
グラフィックの世界でも、Illustrator等のソフトウェアが出来たことによって、1mmの幅に10本線を引くような職人技とされてきたことが誰でもできるようになったかに思えたんだけど、たとえばフォントは「12pt」の次は「14pt」その次は「16pt」と決められているようにツール側が「見せる」せいで、そもそも1mmの幅に10本線を引くような精緻な発想自体がなくなったという話を聞いたことがあります。本当は小数点以下まで調整できるのに。ただ竹山は打ち込みで四つ打ちとかも普通に好きだよね。機械的なというかグリッチーな。

竹山
そうだね。けど、僕が好きなのは主に80年代の初期のハウスやデトロイトテクノで、そういうのって当時は生演奏が当たり前の時代に、無理矢理安い機材で作曲しようとしたものだったりするし、かなり身体的な感じを受けますよ。もちろんちゃんとリフやフックがあって。そこには、テンポ以外のなにがしかの「揺らぎ」が入り込んでいる気もする。それでいうとピタゴラスイッチとかのEテレ的な曲が僕は苦手で、いわゆる縦にも横にも数学的に配置された音を支配して作りましたみたいな。人間だけが喜んでいますみたいなのも音楽から身体性や空気感が奪われている感じを受けますね。

――もしかすると、そういう二人の嗜好とか考え方の差異が一曲の中で拮抗しているという部分も、サウンド面の特徴に繋がっているのかもしれないですよね。

竹山
それはあるような気がします。

Chapter 04
情報と文脈の「川」には合流しないもの

――プレス資料に書かれている「未然形の音楽」とは一体どんなものなんでしょうか?

澁谷
これまで話してきたこととも関連していますが、正解として固定されてしまう以前の音楽をちゃんと作品にできないかというのが出発点で。仮に「この曲にはこういう形の正解が一つだけある」という発想で音楽を作ってしまうと、絶対に先細ったものしか出来上がってこない。そう考えると間違え方は無限にあるわけで。そういった「完璧では無いのに、動かしようが無い」というか、「修正」したら良さが全部失われてしまうような演奏が、膨大なリハーサル音源の中にはたくさんあったなと。単に「デモテープ」っぽい着地点ではなくて、それ以上の何かという場所をずっと探していた感じでした。

――何かと何かのパーツがこういう文脈のもとで組み上がっていて立派に出来上がってますね、みたいな批評の仕方があって、「お前もやってるだろう」と言われれば言葉を濁す他ないんですが、今回のアルバムからは、そういう発想へのカウンター的な意識が聴こえてくる気もします。

澁谷
少し前までは、文脈が読めることがいわゆる「素人」と「玄人」を分ける重要なポイントになっていた気がするんですけど、それはもう「情熱」とか「熱量」みたいなものと無関係になってしまいましたよね。ピッチフォークのスクショとバズ構文で「年間ベストです」そうですか。みたいな。本当にその音楽はあなたの心に傷をつけましたか?っていう。個人的な話で言えば、数年前にDJをやってるって人と話すことがあって、その人が「ファンク以外はギターのアタック音がダメ」みたいなことを言っていて、それにめちゃくちゃ腹が立って、「じゃあ、お前のプレイリストに決して入らない、この曲の前後に何が来てもそこに文脈を与えられないようなものを作ってやる」みたいに思ったこともあった(笑)。とにかくネットだろうがリアルだろうが情報と文脈の「川」には合流しないものを作りたかった。

――竹山さんはいかがですか?

竹山
俺もその場にいて、同じようにめちゃくちゃ腹立って(笑)。ただやっぱり極端に行き過ぎて未完成になる危険性も孕んでいて。その辺のバランス感覚は俺の方が持っている気がする(笑)。

澁谷
いや、俺も「完成」という概念に対しては執念があるから大丈夫。

竹山
ひたすら時間がかかる(笑)。

澁谷
そう(笑)。

Chapter 05
これは運命だなと思って、Zamboaを名乗ることにしました。

――今回、なぜバンド名をZamboaに変更したんでしょうか?

澁谷
一つにはかなり実際的な理由があって。KKKを想起させてしまう「Klan」という単語が、「もうダメだろうな」と思った。10数年前に名前をつけたときには、「血族」とか「秘密結社」とかっていう響きのかっこよさに中二病的に盛り上がって付けたんですが、これってもう「記号」じゃないよなと。明確に人を遠ざけうる「意味」を持っているし、俺たち自身がそういう思想を持っているわけでもないし、そういう意味では最初から記号では無かったんだけど、名前を付けた頃は気付けなかった。
だから「名前変えた方が良いよな」というのはずっと考えてて。

――なるほど。

澁谷
割と長いこと候補を探していたんですが、ある時に北原白秋が編纂した『朱欒(ザンボア)』っていう明治時代の文芸誌の存在を知って、そこに参加している詩人達に、萩原朔太郎、室生犀星、高村光太郎がいるんですけど、ほんとに偶然なんですが、その3人の名前の中に僕と竹山のそれぞれの子供たちの名前が入っていて。
これは運命だなと思って、Zamboaを名乗ることにしました。

――そんな偶然が。

澁谷
気づいた時は鳥肌立ちました。「導かれた…!」って。ザンボアはポルトガル語で果物の「ザボン」のことなんですけど、ザボンって自分達の出身地の鹿児島が伝来の地とされていて親近感があったのと、字面と響きのゴツさの割に柑橘類っていうギャップとか、「欒」の字は「団欒」の「らん」で、「人が集まる様子」というニュアンスがあるとか。屋号を変えるなら今度はポジティブな意味を込めたいと思っていたので、そういう副次的な理由もあって。

――今回のアルバムのモチーフになったという「田園」というキーワードとも繋がっている感じがしますね。この「田園」という言葉が出てきたのにはどういう背景があるんでしょうか?

澁谷
まず、自分の中にある原風景が決して都会のそれではない、ということが大きいですね。いわゆる「都会的な音楽」ってあるじゃないですか。

――例えば、シティポップみたいな?

澁谷
そう。あれを生み出せるマインドが自分のどこを探してもないんですよ。シティポップに限らず、例えば細野晴臣さんが1970年代前半に狭山に引っ越して『HOSONO HOUSE』っていうアルバムを作っているわけですけど、都会を離れて田園風景のある場所に引っ込むという気持ち自体にはめちゃくちゃシンパシーがある。だけど作品自体は僕には圧倒的に都会的で洗練されたものに聴こえる。じゃあ、そういう「田舎に引っ込む」みたいな精神性のところで立ち止まって自分なりの表現で音楽に落とし込めないだろうか、みたいな。

――そういう気持ちは竹山さんにもありますか?

竹山
ものすごくあります。祖父母がお茶農家で幼少期はよく祖父母の家にいて、原体験が目の前見渡す限り茶畑、海、山みたいな。真夏の茹だるような暑さの中、目的もなく一人で歩いていて。どこかでそういう景色に惹かれ続けているのかもしれません。それこそ景色がループだったりドローンっぽい感じですね。全くせわしなくないというか。

澁谷
俺も制作中に、Dusterというバンドのアルバムを聴いていた時、これは良いなぁと思って、彼らの出身地がカリフォルニアのサンノゼということが書いてあったので、Googleストリートビューで調べてみたことがあって。そしたら、出てきた風景になんともいえない強烈な懐かしさを覚えたんですよ。この風景からこの音楽が出てくるっていうのも、本当によく分かるなと思って。なんというか、一曲通して1つの持続音みたいに聴こえる音楽というか。田舎ってこのドローンな感じだよなみたいな。そういう経緯も「田園」というコンセプトの土台になりました。

――「田園」、「パストラル」、「ドローン」、「アンビエント」と連想していくと、どうしてもブライアン・イーノの『アンビエント 4: オン ランド』の存在を思い浮かべてしまうわけですが、あれって、イーノの諸作の中でも格段に不穏で、いわく言い難い怖さのあるアルバムだと思うんです。今回の『未来』にも、少しあの感覚に通じるところがあるような気がします。

澁谷
おっしゃる通り、怖さは重要なポイントですね。夜の暗さって普通に怖いですからね。昼間でも例えば団地の近くの公園とかに行って、そこから団地を眺めた時に、「この部屋の一つ一つに人がいる感じが全然しない」みたいな静けさを感じる時とか、学校を休んだ日に「家って普段こんなに静かなんだ」って思いながらカーテン越しに見える外の景色の灰色の感じとか結構よく思い出すんですよね。あの感じもちょっとやりたかった。

――いわゆる「リミナルスペース」のような?

澁谷
まさに。リミナルスペースの音楽版をやれないかなという。

竹山
車通りはあるんだけど、乗っている人の姿はよく見えないし、歩いている人もいない……みたいなね。全体的に怖さ、暗さみたいなものは重要なキーワードになっている気がします。実際、僕達自身が好きなコードを思い浮かべると、暗い響きのものが多いんですよ。リミナルスペースで言うとArctic Monkeysの『The Car』がやばかったよね。

澁谷
あれヤバかった。最初聴いた時「誰!? どういうこと!?」って思った。アレックスのボーカルが入ってくると「どうも〜アークティックモンキーズでーす!」で。

竹山
(笑)。

Chapter 06
澁谷から「あの曲の後ろで『おどま薩州』歌わない?」って来て。

――どういう和音を心地いいと思うか、あるいはどういう和音にどうやって心を動かされるかという問題って、音響心理学や美学的な分析の対象にもなる一方で、文化的な背景にも大きく関わるものだと思うんです。とすれば、お二人の「暗いコード好き」にも、なにかそういう背景が隠されているのかな、と。

澁谷
僕は根っから短調の人間なので、例えば、ショパンとサティのファンが日本にめちゃくちゃ多いという話もすごく頷ける。あの物悲しさや暗さにうっとりしたい気持ちがきっとみんなあるんじゃないかと思うんですよね。日本の民謡にしてもやっぱりどこか暗いし、怪しいところが好きですね。

――今回のアルバムでも、例えば「ひばりの朝 (Hibari No Asa)」のような曲からは、「日本」や「和」、「アジア」と結びついた感覚が垣間見えます。仏教の声明を思わせるというか……。このあたりは、インタビューの前半で竹山さんがおっしゃってくれた話にも通じてくると思うんですが。

竹山
「ひばりの朝 (Hibari No Asa)」に関しては、二人の間で「こういうアレンジにしたい」という方向性がバチッと重なったよね。

澁谷
そうそう。

竹山
鹿児島に「おどま薩州」っていう古い歌があって、それをオケの後ろで歌うのが良いんじゃないかって考えていた時に澁谷から「あの曲の後ろで『おどま薩州』歌わない?」って来て。

澁谷
竹山から「俺も同じこと考えてた」って返ってきたから盛り上がったんだけど、実際に「そのまんま」やってみたらえらく素っ頓狂なものになってしまって。ほんとにご飯の上にスパゲティが乗ってるみたいな(笑)。それで一旦白紙に戻したんですが、竹山がちょっとアイディアを持っていて。アレンジを任せたら良いのが上がってきた。

竹山
諦めきれなくて。

――改めて竹山さんに伺いますが、今回のアルバムを作るにあたって、自身の文化的ルーツとかアイデンティティみたいなものを探求するという気持ちが強くあったということなんでしょうか。

竹山
はい。そういう気持ちは昔からありました。音楽はもちろん、日本の文化や歴史を調べるのが以前から好きで。さっき話に出た「おどま薩州」は「薩摩兵児謡(さつまへこうた)」とも言われているもので、昔からかっこいい歌だなと思っていたんですよ。だいぶ前からライブのセットリストに「おはら節」があったり、そういう表現を自分たちの音楽に取り込む方法はないかな、とは常に考えていたんです。とはいえ、そのアイデンティティを「そのまま」出したらさっきの「ひばりの朝」みたいな「なんか思ってたのと違う」恥ずかしいものが出来ることはわかっていて、どうしたものかなと。Ocoraっていうフランスの世界中の民族音楽を出してるレーベルが薩摩琵琶のレコードも出してて、それとか聴いて考えたりしてましたね。岩佐鶴丈とか。このレーベルは録音が良くて、中古レコード業界でも「優秀録音」として知れ渡っている。

澁谷
俺もそのレーベルを教えてもらって鶴田錦史という人の音楽を知ってすごくハマりました。2ピースのバンドのギタリストがやる奏法に近いというか、低い方の弦で低音を維持しつつ、高い方の弦でメロディを弾いていくんですよね。

――それは、戦略的な選択というより体感的にそういう曲に惹かれるという感じなんでしょうか?

竹山
そうだと思います。

澁谷
俺もそうですね。「おはら節」も鶴田錦史も純粋に音楽として好き。

Chapter 07
未来=「not yet come」

――最後に、『未来』というアルバムのタイトルについて伺わせてください。

澁谷
正直、なぜこのタイトルにしたのか、自分達でもわかっていないところがあって。理由とかを深く考えないまま竹山に「アルバムタイトル『未来』ってどう?」って言ったら「いいね」って。そのくらいのスピードで決まったので。いくつか言えることとしては、CANに『Future Days』というアルバムがあることとか、「未来派」という響きが好きとか……。実は、自分が一番関心が無いもののような気もするんですよね。俺が情熱を傾けているのって「記録」とか「保存」とか、過去っぽいことが多いし、なんか見てきたかのように未来予測を語る人も嫌いで。

――今の話で思い出したエピソードなんですが、細野晴臣さんが久保田麻琴さんと一緒にニューオリンズのロニー・バロンというミュージシャンの作品をプロデュースしたとき、彼から英語の「Future」は日本語でなんていうんだと訊かれて、漢字で「未来」と書いて「not yet come」という意味であると教えたらしくて。そうしたら、彼がいたく感動していたそうなんです。

澁谷

竹山
うわー!なるほど!

――その話を読んで、もしかすると、欧米における「future」というのは、過去と現在から連なる因果関係の連続の末に起こるある特定の時間、というニュアンスが含まれているんじゃないかと連想して。そうすると、日本語の「未来」の字が意味する「not yet come」とはかなり異なる概念なのかもしれないなと思ったんです。翻ってZamboaのアルバムタイトル『未来』が指すところのそれも、「not yet come」に近い意味なのかもな、と。

竹山
それは面白い!そうか「Future」って「未来」じゃないんだ。

澁谷
本当だな……。俺たちは絶対、漢字に引っ張られる形で、「まだ来ていないもの」として未来を捉えていると思う。その話にはとても目を開かされました。そう考えると、良いタイトルを付けたと思えますね。

インタビュアー・プロフィール

柴崎祐二(しばさきゆうじ)
1983年、埼玉県生まれ。評論家/音楽ディレクター。
2006年よりレコード業界にてプロモーションや制作に携わり、多くのアーティストのA&Rを務める。
単著に『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす 「最文脈化」の音楽受容史』(イースト・プレス 2023年)、『ミュージック・ゴーズ・オン~最新音楽生活考』(ミュージック・マガジン、2021年)、編著書に『シティポップとは何か』(河出書房新社、2022年)等がある。