アルバム『未来』に寄せて

制作背景

Text By澁谷 亮

「メモは取るんだけど、見返すことがない」と言ったら「仕事ができない人の典型じゃん」と返されたことがあって、それをきっかけにしてiPhoneのボイスメモに録り溜めた鼻歌を聴き返す日というのがあった。

記録されていたのはどれも手癖のようなリフやメロディで「ほらな」とうんざりしたが、「新規録音#180」というような、固有のファイル名をつけることすら放棄した、いかにも思い入れのなさそうなファイルが並ぶ中、「田園」と仮タイトルまでつけられたデータがあった。何を録ったか覚えておらず、少し期待しながらそのデータを再生すると、メロディの中に、このタイトルは明確にこの部分から想起されるイメージによってつけられたのだと思い出す瞬間があった。1小節もないほんの一瞬だったが、この「田園」のムードでアルバムが作れないかと考え始めたのが出発点だったように思う。

それと同時に、私はある時期からThis Heatに倣って「全部録音しよう」と考えていた。
編集を前提とした「素材」としてではなく、リハーサルやサウンドチェックの時に良いと思ったフィーリングが、いわゆる「本番」になった時に何故かこぼれ落ちてしまうのを掬い上げたかったのと、シンプルに、リラックスして叩いている時の竹山のドラムが好きだったからだ。
それは「デモ」以上のものが良かった。つまりiPhoneやハンディレコーダーではダメだった。
そういう理由で、2019年のある時期から、竹山にも協力してもらって、楽器とは別に録音機材(マイク、ケーブル、プリアンプ、オーディオインターフェース、PC等)をリハーサルに持ち込むことにし、サウンドチェックから合間のお喋りまであらゆる時間を録音し続けた。
我々の間で「呪い」と呼んでいた曲がある。
結果から言えばこの曲に2019年からの5年間ずっと苦しめられ、そしてこの曲の完成が見えたことでアルバムの全体像が見えたのが今年の7月だったのだが、制作物と物語を接続する上で少し遡って書かせてもらう。
2014年に2ピースバンドとして初めてスタジオに入った時、すぐに「無理だ」と感じた。バンドとしてあまりに自由度が低く、やれることの範囲が狭い、究極にいびつなフォーマットだと思った。反面、音数が増えることで失われるムードというものも確かにあり、暗黙の了解でガーッと行くような局面では二人でやる意味が強くあった。その二つの相反する気持ちの間で引き裂かれながら曲を作ってきた — 具体的には、曲のキャラクターを規定するような強い旋律はできる限り一つに絞り、あくまでも二人で再現ができる範囲で曲をアレンジしてきた。それがこの「呪い」の元凶なのだと気づくのに5年かかった。
なぜなら私はSilver Applesのシメオン・コックスが、両手だけでなく肘や膝、顎まで使ってオシレーターを操っていたというエピソードや、The White Stripesのメグホワイトのドラムが、決して上手くないのに、肝となる重心を逃さず、ジャックホワイトのギターや歌と強く合流できることや、Tonstartssbandhtがフィンガーピッキングによって、ギターで作り出せる低音に膨らみを持たせながらリズムを多層化しているところなど、制約による不自由さと個人の「癖」みたいなものが掛け合わさることが、バンドにオリジナルなアイディアをもたらすのだと信じていたからだ。側から見れば単なる倒錯だとしても。
しかし初めは「きれいな字」という名前だったその曲を「呪い」と呼び変えるまで何度も何度も試行錯誤する中で私たちは完全に疲弊し、それでも曲が良くなることはなく、ついに演奏にテンションを乗っけることが出来ないところまで来てしまっていた。
そういう何にもならなかった時間もとりあえず録り続けた。そして諦めとともに、そういったテイクに1つ2つと音を重ねてみて初めて、自分の足を止めていたのが、登ることのできる階段ではなく本当に行き止まりの壁だったのだと気づいた。
録音機材は持ち運びも大変だし、セッティングだけで1時間くらいかかってしまうが、この5年間ほぼ全てのリハーサルにそれらを持ち込み記録してきたものの中にはキラリと輝いている瞬間がたくさんある。
それはおそらく聴き手が求めるような「音楽の形をした音楽」ではなく、音楽になる途中の音なのだと思う。しかしそれこそが自分が録りたかった音であり、それを音楽「未満」と呼ぶのは悲しいので、「まだそうなっていない」を意味する動詞活用形の一つから名前を拝借して「未然形の音楽」と呼ぶことにした。アルバムの着想となった「田園」もそういう「瞬間」だった。
結果としてこのアルバムは「本番以外」に録音された部分が多い。練習の合間に叩いたドラム、試しに弾いたギター、無計画な実験、失敗テイク、アクシデント、油断、遊び、そういった演奏を隠さずに「そのまま使う」ことで「未然形の音楽」というテーマが具現化した。
こう書くと何か呑気な作品になっている感じがするが、逆にこれまでで一番緊張感と迫力がある作品だと思う。パッチワークのようなその場しのぎでも、コラージュのような誤魔化しでもなく、身体を持ったロックバンドの演奏として聴こえる。
「偶然性」も含めて、二人で再現できるという枠からはみ出た瞬間が連なるのを聴きながら「動かしようがない」と感じ、完成していると思った。

所感

Text By竹山隆大

空海さえも登ることが出来ないほど険しい山で、未踏峰として考えられていた剱岳という霊山がある。
かつて「あの世」と称された立山連峰にそびえ立つその霊山は1907年に陸軍参謀本部の命令を受け、測量隊によって初登頂を達成した。
登山具の発達によって多少の助けはあったが、それでも厳しい過酷な道のりであったという。
しかし、登頂を果たしたその隊が山頂で発見したのは、奈良時代の鉄剣と錫杖頭(しゃくじょうとう)だった。
人知れず名前もわからない何者かが登山具もない時代にすでに登頂を果たしていたのである。
どれほど厳しい道のりであったかは想像すらできないが、その瞬間に、誰からも顧みられなかった「点」が1000年以上の時を経て「線」となった。
6年があっという間に過ぎ、ようやく新しいアルバムが完成した。
個々のアルバムで影響を受けた音楽は違うが、今回も様々な過去の音楽からの引用がある。
過去の「点」を現在の「点」へ繋ぎ合わせる作業は心が踊る行為だ。

このアルバムも誰かへと繋がる「点」になれば嬉しい。