
※この記事は『よつばと!』13巻のネタバレを含みます。
今年の3月にTURNに掲載された岡田拓郎と澁谷の対談記事で、
進行役を務めてくださった髙橋翔哉さんが、記事のリード文でこのようなことを書いてくれた。
そういえば澁谷はかつてTwitterで、(中略)Zamboaの音楽で表現したいことを漫画『よつばと!』の一コマを挙げて例えていた。
これは私自身も忘れていたことで、「そういえばそういうことを言った気がする」と思い、過去の自分のツイートを遡って探したところ見つけたのがこの画像だった。

『よつばと!』13巻より

多分「大体伝わるでしょ」と思って当時ツイートしていると思うし、
私はこういうことをやりまくってきた気がするのだけど、
伝わるわけがないのだ。
その反省も込みでこのコマが何なのか、一度きちんと書いてみようと思う。
まず
まず、このコマは「落胆」を表していない。
この「あーあ!」は実はそういうニュアンスではなく、
ここに至るまでの物語があって初めてこの「感じ」の説明ができる。
「詳しくはよつばと13巻を読んでほしい」と書いても誰も読まないと思うので、ざっとあらすじを紹介。
よつばは、関西から遊びにきたばーちゃんと楽しく過ごしている。
3日目の夜、「きょうもばーちゃんと2かいでねる!」と言ってひとりで2階へ駆け上がって行ったあと、1階に残ったとーちゃんとばーちゃんは話をする。
「そういや よつば 私が明日帰るんは知ってるんか?」
「あーーー….わかってない気がする」
「教えた方がええかな? ぐずるか」
「ぐずるな」
「ならぐずるんは帰る時だけでええやろ 黙っとこ」
「ん」
その奥から「はやくこないとねちゃうよー!」という声が聞こえてくる。
ばーちゃんは絵本を持って2階へ上がっていく。
次の日、朝からばーちゃんを手伝い、一緒におにぎりを作ったりパンを焼いたりする。ご飯を食べた後、ばーちゃんはよつばの破れたズボンをミシンで直してくれて「あななくなった!」と喜んでいた。
そこで突然「じゃあそろそろ帰ろうかね」とばーちゃんが立ち上がる。
一瞬意味がわからないよつばは目を丸くして「ばーちゃんかえるの?」「どこに?」「ここにずっとすむんじゃないの?」と驚く。
そしてあらゆる手段で引き留めようとするが、どうやってもばーちゃんは帰ってしまうのだと分かり最後には泣いてしまう。
ひとしきり泣いて落ち着いた頃に到着したタクシーが、ばーちゃんを乗せて遠ざかっていく。泣いてスッキリしたよつばの表情はケロッとしているが、後部座席からこっちを見ているばーちゃんが角を曲がって見えなくなるまで手を振り、手を下ろした後もその角を不思議そうに見つめている。
家の中に戻ろうとするとーちゃんを追いかけながら「あーあ帰っちゃった」とつぶやく。2人が家の中に戻る手前で、もう一度同じ感情がさっきよりも強く口をついて出てくる。「あーあ!」。
つまりこれは、ばあちゃんと過ごした楽しい数日間から日常へ戻っていく少し手前を切り取ったコマになっている。
数ページを割いて描かれるばーちゃんとの「別れ」はとても漫画的であり「ストーリー」であるのに対し、この最後の1コマはカメラに持ち替えたように「瞬間」である。時間が止まっているようにも流れているようにも感じる。
よく見ると、家の扉にとーちゃんの手はかかっているが開かれてはいない。
まだギリギリ特別な時間の中にいる。
それでもよつばが左手で握る玄関の門はこれから閉められようとしている。とーちゃんは扉を開けて2人は日常の中に戻っていく。その気配や予感が1枚の絵の中に描かれているのが良い。
よつばに向けられるとーちゃんのいつも通りの眼差しによって寂しさが、顔の見えないよつばの後ろ姿から明るさが感じられる対比もすごいと思う。
よつばのキャラクターを知っていれば、このシーンを悲しいと捉える人はいないと言い切れるくらいによつばは明るい。この後何事もなかったかのように日常に戻っていくのが簡単に想像できるキャラなのだ。それでも寂しさが拮抗しているのは、別れの後だからというだけでなく、とーちゃんが影の中にいるからだ。子供(自分)はいつも日の当たるところに、親はいつも日の当たらないところからこっちを見ていた気がする。このとーちゃんを見ているとそういう映像が蘇ってくる。
遊び終わって
遊び終わって帰ると、ずっと楽しみにしていたアニメ『レッツ&ゴー』の最終回を見逃したことに気付いて泣き崩れたことがある。
もっと遊んでいたいと思って、門限の17時を30分くらい過ぎて帰ると
家の鍵が閉まっていて絶望したことも何度もある。
間違って鍵を閉めちゃっているのかもしれないという一縷の望みにかけて何回もインターホンを鳴らしても反応が無く、「わざと閉めてるんだ…!」と気付いた時に血の気が引いていく。
庭の方に回って窓越しに訴えても開けてくれず、最終的に泣きながら謝ると開けてくれるのだが、実際は5分くらいだったであろうその時間は絶望的に長く感じた。
子供の頃の「遊びの終わり」にはなぜか「絶望」がセットで付いてくる。
私が好きだったのは、友達の家まで親が迎えに来てくれるケースだった。
「帰るよー」と言いながらやってきた母親が、友達のお母さんに「まぁまぁ」と招き入れられ、いつの間にかテーブルに座ってお茶を飲み、親同士の談笑が始まり、遊びの時間が延長される。
私はこのロスタイムのような時間がとても好きだった。
延長された時間を喜びながら、楽しそうに話している親の姿を横目に見るのも好きだった。「まだしゃべってるってことはまだ遊べる…!」とも思っていた。
そうやっていつもは17時までしか遊べないのに18時半とか19時まで友達の家で遊んだ帰りの車の中の時間は、この1コマに流れている時間と似ている気がする。
『よつばと!』の描写は10巻あたりを境に集中線や効果音などの漫画的な表現が減っていき、風景が風景として、かなりの静けさを持って描かれるようになった。それによって画面がより鮮明になっていったという経緯があり、今回取り上げた13巻あたりはそのバランスが絶妙な塩梅になっている。
14、15巻あたりからは特に、キャラクターまでもが静物として描かれているようなニュアンスが増し、全体が記号に飲まれていくような不穏さを感じることがある。
それは、写真的になっていったと言い換えることもできる。あらゆるコマがシャッターポイントになっていて、全てが「記憶」や「思い出」に見えてくる。だからたまに「怖い」という感想があるのだと思う。
私たちは一瞬のことを鮮明に覚えているということがよくある。
だから一瞬が鮮明に描かれたものは、それが見たことのない光景でも私たちの記憶に似ている。
なぜ
なぜこの絵を「音楽で表現したいこと」として投稿したのか。
2018年当時の私は音楽を「時間」だと思っていて「こういう時間のような音楽を作りたい」という意味で投稿した気がする。
つまり、「初めから余韻が鳴っているような音楽」を作りたかった。
でも今回文章にしてみて、時間そのものというよりも、写真のように「時間と場所を閉じ込めたもの」を作りたいのかもしれないと思い直した。
大枠としてはそんなに変わらないかもしれない。
音楽を聴いて感動する時、鮮明な言葉や音によって自分の中に何かが呼び出されるという体験がある。それはやっぱり「知らないのに似ている」感覚な気がする。歌われていることと必ずしも関係ない記憶のようなものがいきなりここに呼び出されて、「知っている」と思ってしまう。
私もそういうものが作れたらなぁということで投稿したツイートでした。